沖縄と言うと珊瑚で出来た石灰岩の島ばかりという印象が有るが、西表島には炭層が有り、過去にいくつかの炭坑が存在した。
炭坑は西表西部に集中しており、内離島、外離島、宇多良川等には多くの坑口が開かれ、戦前から石炭を掘り出していた。
青い海に珊瑚礁が広がる南の島に有った炭坑、その労働環境はとても過酷だったそうだ。
早くから機械化された本土の大型炭坑と異なりツルハシで手掘り、換気用の竪坑すらほとんど無い粗末な現場、マラリアの蔓延等で死者も多数出していたらしい。
あまりに過酷で逃亡を図ろうにも、内離や外離は島だった為、泳いで逃げる途中で射殺されたり、捕まって暴行を受け命を落とす人も少なくなかったそうだ。
最盛期には内離島で2000人近く、外離島と合わせると2800人くらいが住んでいたそうだが、アダン等の植物に覆われた平地のほとんど無い島にそれだけの人が住んでいた様にはとても見えなかった。
外離島
内離で今現在近寄れる坑口は2つ、1つは白浜集落の対岸で船浮観光の観光コースになっているので、ツアーに参加すれば比較的行きやすい。もう1つはイダの浜の対岸で、狭い浜から低い崖とアダンの茂る箇所を越えて行かなければならない。
自分が案内してもらったのはイダの浜の対岸、位置的に恐らく6坑。
ここは坑口すぐの所に竪坑が有る以外は通気坑が無い。
換気は?と聞いた所、当時は狭い坑道に板を入れて上下に分け通気していたらしい、との事。
ツルハシの跡が生々しい手掘りの坑道は狭くて低く、うっかり船にキャップランプや懐中電灯を忘れたのとハブ注意の為、傾斜手前までしか入れなかったのが残念。
坑口周辺はほとんどアダンの茂みに飲み込まれていて、桟橋の橋台や砂岩で組まれた施設の石垣等が僅かに残るのみで、そこに炭坑や集落が有ったとは俄に信じがたい。
第六坑口?
坑道
桟橋跡
施設跡
施設跡(砂岩の石垣)
坑口跡を案内してもらった後、イダの浜まで送ってもらいシュノーケリングをしていたが、途中地元の漁師さんやオバァと話し込む。
漁師さんとの話は面白く、オバァのしてくれた炭坑の話、戦争の話は実に興味深かった。
船浮集落は、炭坑が有った頃は裸で泳いで逃げて来た炭坑労働者に、干していた洗濯物や農作物を良く盗まれて大変だったとか。
周辺は天然の良港だった為、戦時中は日本軍が駐屯、集落の多くの人が疎開を強いられ、西表東部の大原に移住したり、台湾へ疎開途中船が沈められたりしたそうだ。
残った人も米軍の攻撃や奉仕労働で農作業も出来ず、食糧難による体力低下でマラリアが蔓延、終戦すら知らされないという惨状だったとか。
帰りに寄った集落で、オバァの話を思い出しながら旧日本軍の遺構を巡り、定期船で白浜に有る宿へと戻った。
(船浮は他の集落と道で繋がっておらず、今でも船でしか行けない陸の孤島)
旧日本軍塹壕
特攻艇格納庫
宇多良炭坑編につづく?
内離島